OUTBOUND
高木崇雄 著 書籍『わかりやすい民藝』
福岡の工芸店店主であり、工芸史家の高木崇雄氏による著作です。以下は、先日開催された同書の刊行記念対談の告知文です。
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対談に先がけて、『わかりやすい民藝』を拝読致しました。第1章「〈民藝〉がうまれるまで」では、カウンターカルチャーとしての民藝運動が勃興した背景が、柳の思想という内発的側面(「不二」=ものを二つに分け、対立するものと見るのはやめよう、「如」=お互いがお互いの価値を見出して循環する、複合の美、否定を通じて真実に近づこうとする「〇〇にもかかわらず」という逆説の論理、など)と、当時の社会情勢に対しての二つの反発(沖縄方言の禁止や日韓併合といった一元化していく当時の社会への抵抗、外貨獲得を目的として海外万博に出品される日本趣味的物品に当て嵌められた「美術」という新造カテゴリーが再編される過程で使われ始めた「工藝」という言葉の社会的な扱い)といった外発的側面という両面から論じられ、不勉強な私にもすっと入ってきました(最初、『わかりやすい民藝』ってタイトル、身も蓋もないんじゃないのって思いましたが、実際とてもわかりやすいです、スミマセン)。
続いて「民衆的工藝」=〈民藝〉の誕生」では、柳が「工藝」という言葉を単にものづくりの分野としてだけではなく、その背後に潜んでいる「時間」までも含んだものとして捉えていたと述べ、バスの運転手の声が「工藝的な声」であるという柳の『工藝的なるもの』の一節を引きつつ、個人的な行為が社会という公の場で次第に削ぎ落とされ、煮詰まって一つの特徴ある姿となったものが「工藝的」であると論じ、その例として高木氏本人が学生時代に没頭していた「能」の稽古を題材に更に論旨を深めていき、こう続きます。
つまり、自分が稽古した時間に先人が積み重ねてきた時間が圧縮されて、すべてが身体化された結果に加え、声を出す際の季節、天候、場の空気が導く「調子」という状況を踏まえた瞬間に出てくる声は「私」を離れ、「公」の声となる。「工藝的なるもの」となるのです。だからこそ、「能の声」とは自分の声であって、自分の声ではない。(113頁)
本書の中でも個人的ハイライトのひとつであるこの部分は、自分にも思い当たる節があり、刺激的で興味深い一節です。そこから、「〈民藝〉の近代性」、「記号化してしまった〈民藝〉のマイナス面」と続き、同時代における〈民藝〉についての座談会的な第2章、工芸店の店主としての考えがまとめられた第3章(いや〜、真っ当。欲張りな自分は少し反省)。そして、巻末の「〈民藝〉を掘り下げる、ブックリスト20」も、取り上げた書籍のタイトルをざっと見るだけでも氏の興味の振れ幅が伺えます。
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以上、Roundabout&OUTBOUND店主 小林のインスタグラムより抜粋